住所も判らないとの事

「今日、お怒りになつていらつしやるだろうと、実はビクビクして参りましたら、もう貴方が、郊外の方へお越しになりましたつて話ですもの、住所も判らないとの事ですし、実は悲しくなつて歩いていましたら、ヒョッコリ貴方が、私の横を素通りなさるのですもの……」 やつぱり、あの太つちよの女は豚であつたと谷村さんは、手を握つてやつた事を心のうちで後悔しました。美しい彼のひとは、谷村さんから金を借りると、すぐ姉の絵の具を買つてやつて自分はまた銀座あたりのカフエーなぞを歩いて、姉の製作費を捻出していたとの事でありました。 七拾円あまりの貸した金も、かのひとは、美しい紅いリボンのついたハンカチフーの包みと一緒に、谷村さんに押しつけました。 谷村さんは呆然として手を出していました。「あゝ私、これでとてもせいせいしましてよ。これは、姉の絵のエハガキでございますの、ね、此の日曜日に、上野へ参りましようよ。姉がとてもよろこびますわ」 谷村さんも落ちついてものが云えるようになりました。 フルゥツパーラで、オレンジエードを飲んでその女のひとと別れると、谷村さんは、久し振りで肩で笑いながら下宿へ帰つて行きました。そして燈火のつき始めた、軒下の名札掛を眼を寄せて覗いて見ますと「小松百合子」と云つた女絵描きさんのところが、とうに空つぽになつていて、あとは一人も不足した下宿人なぞはありませんでした。「あゝ、女の髪のひとすじの恐しや」 谷村さんは行李や、薄団をまとめると、もう日暮れだと云うのに荷車を頼んで、清修館を出ました。「オイ引越屋さん、どこか静かな下宿へつけて下さい」 そこで谷村さんの気持を、只少し明るくしている事は、あの、押し入れの中に残して来た五六十箇の腐つた卵を、あの太つちよの女がどう処分するかと云う事でありました。

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