人生意気に感じなば

 6 それから、もう谷村さんの食事は大変カンタンになつてしまいました。あんなに、朝か夕方かにつけてくれた二ツの卵が、谷村さんのお膳に乗つて来なくなつたし、お膳運びが、スガメの女で、前よりも、汁の中に髪の毛が多いようにさえなつたのです。 谷村さんは、その幾筋かの髪の毛を見ても、唯微笑して取り去るだけで、もうそんな事で神経を痛めるのは馬鹿らしいと思うようになつていました。

 人生意気に感じなば 功名誰か復論ぜんや 昔の詩人の云つた言葉でもつて、若さを台なしにしてしまつてはおしまいだと谷村さんは、メスを磨いたり顕微鏡を拭つたり、ノートを新しくして気持を替えようとはかりました。 或日。 平和な日の学校通いは、いゝ散歩でありましたし、谷村さんには大変愉しいのでありました。いつものように、コツコツ秋風の渡る街路樹の下を歩いていますと、「谷村さんではありませんでしようか?」「谷村?」 谷村さんは、眼鏡をズリ上げて、振り返つて見ました。矍麦のようだつた、あの美しいひとが、薔薇のようにすんなりとなつて谷村さんの前に立つていました。 心静かであるべき筈なのに、谷村さんの顔面筋肉はピクピクして、胸はコトコト鳴り出しました。「もう三週間以上にもなりますわ」「それで、私に何の用があるんですかツ」「本当にお怒りはごもつともだと思つています。幸い姉が、秋の展覧会に入選いたしましてあのお金大助かりでございましたのよ」 二人はいつか肩を並べて歩いていました。

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