台所の方では

 台所の方では、何事があつたのか、女達がガヤガヤと笑つていました。 谷村さんは医学上から見ても、あのように太つた女は好きではありませんでしたので、卵の親切を受けるとどうしてよいものか、胸がコトコト鳴りました。 卵を食べないで、此のまゝ返してやれば、あの女が怒るだろうし、谷村さんはその二ツの小さい卵を着物のはいつている竹行李の中へ入れておきました。 二階の四号室、美しい彼女、もう谷村さんは気が気ではなく、ぷいつと障子を開けると、玄関へまわつて、わざと大きい音を立てゝ二階へ上つて行きました。 四号室は、丁度谷村さんの部屋の真上です。谷村さんは猫のように、一寸とりすまして、眼鏡をズリ上げました。「先程は失礼しました」 部屋の中には電気がついているようでしたが、大変静かです。「先程は失礼いたしました」 すると、隣りの五号室の障子が開いて、眉の太い男が顔を出しました。「隣りの人達、いま出掛けられたようですよ」「ア、そうですか」 谷村さんは、大変自分のやつている事を浅薄だと思いました。部屋へ帰つて一生懸命勉強しようと思いました。谷村さんは、下へ降りる時は、まるで、鼡のようにチロチロと足音をしのばせましたが、別に誰も谷村さんが二階へ上つたのを見た人はありませんでしたし、降りたのも見た人はありませんようでした。 部屋へはいると、膳はもう下げてありました。谷村さんは落ちついて机の前に坐ると、ふとまた髪の毛の事が気にかゝつて、そつと電気の下に顕微鏡を持ち出して、本の間にはさんでおいた太つちよの下女の髪の毛を小さく剪つて覗いて見るのです。 鉱物性の油が沢山ついているのに変りはありませんでしたが、どうも蜆汁の中から出た髪の毛とは質が違つていて、非常に細く柔かそうでした。 スガメのかしら、谷村さんは太つちよの女がフッとおかしい程いとしいと思いました。四号室の女の人のように、美しい姿、美しい顔ではありませんが、動物的な人のよさを持つていました。谷村さんは変な幻想を払いのけるように畳に横になると、二階の四号室の女の人達が帰つて来たのででもありましよう、谷村さんの顔へ、ぱらぱらと埃が落ちて来ました。

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