心の清き者は福《さいわい》なり

 心の清き者は福《さいわい》なり、何故なればと云えば其人は神を見ることを得べければなりとある、何処でかと云うに、勿論|現世《このよ》ではない、「我等今(現世に於て)鏡をもて見る如く昏然《おぼろ》なり、然れど彼の時(キリストの国の顕《あら》われん時)には面《かお》を対《あわ》せて相見ん、我れ今知ること全からず、然れど彼の時には我れ知らるる如く我れ知らん」とパウロは曰うた(哥林多《コリント》前書十三の十二)、清き人は其の時に神を見ることが出来るのである、多分万物の造主《つくりぬし》なる霊の神を見るのではあるまい、其の栄の光輝《かがやき》その質の真像《かた》なる人なるキリストイエスを見るのであろう、而して彼を見る者は聖父《ちち》を見るのであれば、心の清き者(彼に心を清められし者)は天に挙げられしが如くに再《また》地に臨《きた》り給う聖子を見て聖父を拝し奉るのであろう(行伝一章十一節)。 和平《やわらぎ》を求むる者は福《さいわい》なり、其故如何となれば其人は神の子と称えらるべければ也、「神の子と称へらるる」とは神の子たる特権に与かる事である、「其の名を信ぜし者には権《ちから》を賜いて之を神の子と為せり」とある其事である(約翰《ヨハネ》伝一章十二節)、単に神の子たるの名称を賜わる事ではない、実質的に神の子と為る事である、即ち潔められたる霊に復活体を着せられて光の子として神の前に立つ事である、而して此事たる現世に於て行《な》さるる事に非ずしてキリストが再び現われ給う時に来世に於て成る事であるは言わずして明かである、平和を愛し、輿論に反して之を唱道するの報賞《むくい》は斯くも遠大無窮である。 義《ただし》き事のために責めらるる者は福《さいわい》なり、其故如何となれば、心の貧しき者と同じく天国は其人の有《もの》なれば也、現世《このよ》に在りては義のために責められ、来世《つぎのよ》に在りては義のために誉めらる、単《ただ》に普通一般の義のために責めらるるに止まらず、更に進んで天国と其義[#「天国と其義」に傍点]のために責めらる、即ちキリストの福音のために此世と教会とに迫害《せめ》らる、栄光此上なしである、我等もし彼[#「彼」は太字]と共に死なば彼[#「彼」は太字]と共に生くべし、我等もし彼[#「彼」は太字]と共に忍ばば彼[#「彼」は太字]と共に王たるべし(提摩太《テモテ》後書二章十一、十二節)、キリストと共に棘《いばら》の冕《かんむり》を冠《かむら》しめられて信者は彼と共に義の冕を戴くの特権に与かるのである。

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