立派な旗本

 どうも僕の様子はまずこの聖書ぐらいは見すぼらしいに違いない。それが立派な旗本で、今は会社の重役の次男なる主人公と同じ貴族的な態度ですまし込んでいたのだ、と思うと、僕は顔が真紅になるような気がした。だが、女中さんの噴き出したのは、ただ何がなしにその場のシテュエーションの然らしめたところだろう、若い女というものは箸が転んでも笑うと云うではないか、尠くともそれは僕に対する嘲笑ではない筈だ、それは彼女の目がよく証明している、などと僕はひとりでしきりに推究した。なお進んでは、此家の主人公がこの白銅一個を以て購い得た古書に無限の価値を見出して賞玩するように、このかわいらしい女中さんも僕の見すぼらしさの中から何等かの価値を見出してくれているかも知れないなどと、例の詩人らしいいい気な自惚れに没頭していると、「さあ、今日は酒でも飲みながらゆっくり話そう」と云って、Kさんは二つの杯になみなみとウィスキイをついだ。 僕はすぐ酔ってしまった。Kさんのふだんはぼんやりと霞がかかったようにやわらかな顔が、輪廓がはっきりして来て、妙に鋭くなっている。Kさんが酔うといつもこうだ。二人の話は愈々はずみ出した。僕は調子に乗って、象徴詩を罵り始めた。「僕は詩壇をあやまるものは今の象徴詩だと思います。象徴詩は人間を殺します、一体今の象徴詩などを作るには何も一個の人間であるを要しません、ただ綺麗な言葉をたくさん知っていて、それをいい加減に出鱈目に並べさえすればいいんです。それでいて詩人の本当の人間らしい叫びを説明だなどと貶すのは僭越じゃありませんか。シェレイの『雲雀の歌』などを持って来て、意味ありげな言葉をつなぎ合せて、でっち上げたばかりの自分の象徴詩を弁護しようなんて滑稽じゃありませんか。象徴詩なんて、要するに空虚な詩工には持って来いの隠れ場で、彼等はその中で文字の軽業をやってるだけです」 僕は口がだるくなって止めにした。Kさんは時々「ふむ、ふむ」と受けながら、穏かな微笑を浮べて聞いていたが、「まあそんなに憤慨しなくてもいいよ。つまらないまやかし[#「まやかし」に傍点]物は時の審判の前には滅びてしまうのだから。早い話が、基督はいくら十字架にかけられても」と聖書を手に取上げて、「その精神は今日此中に生きているじゃないか。いくら圧迫されても無視されてもいいから、本当の詩を書かなくちゃいけない」と云ってまたそれを下に置いた。僕はこの先輩の声援にすっかりいい気持になって、その聖書をまた手に取ってしきりに引っくり返しながら、いつになく盛んに気焔を挙げた。 帰る時に、僕があまりその聖書を熱心にいじくっていたものだから、「何なら持って行きたまえ」とKさんは云ってくれたが、僕は、「いえ、なに」と立上りながら云った。御馳走ではないものだから、Kさんは「遠慮したもうなよ」とまでは勧めなかった。下へおりると、奥の方で賑かな女の人の笑声がした。門を出ようとして、横の方を見ると台所の窓のところから、例の女中さんの顔が此方を覗いていた。僕は玄関に立っている主人に云う風をして、「さようなら」と、一寸彼女の方に頭をさげた、何だか彼女がにっこり笑ったように思われた。僕はひどく愉快な、はしゃいだ気持になって、「Kさんは珍らしいものを見つけたものだな」と心に呟いて、あの聖書《バイブル》のことを考えているつもりでいながら、いつか女中さんのことを考えながら、そのぷっと噴き出したのはどうした訳だったろうと、いろいろな想像を逞しくしながら、本郷三丁目までてくてく歩いた。

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