その夜沢山のことが判つた

「私はその夜沢山のことが判つた。私は汚辱の中に生きることが不可能なばかりでなく、かく死ぬことも出来ないのが判つた。」 此の言葉が諸君に判るか? と、シェストフは激しい身振で叫ぶのだ。 諸君は自然といふものを考へたことがあるか? と質問すれば、直ちに、考へたことがあると答へるだらう。だが、しかし私はまだ自然を真に見た者を一人も知らぬ。諸君はこの個我の宿中に穴を穿《あ》けたいとは思はぬのか、自然の向う側を見たいとは思はぬのか! 自然とは、調和とは、一体何か。私は私の周囲に押し寄せて来る敵を見た。おお何といふ敵の武装の美しいことよ。

 何か言ふといふことが、何か誤ることだと考へてみるがいい。自分の言つたことが絶対に他者には伝はり得ないと意識してみるがいい。ああ、あるものは意識ばかりだ。見えるものは心理ばかりだ。孤独の苦悩が諸君の頭を打つ時はないのか? それなら私は何のためにこれを書いたのか? 何のためでもない、私はただ書いたのだ。だが、かういふ場合にごまかしといふものは大変役立つ。私も今ごまかしの言葉を吐かう――白紙といふものはそれ自体はただ白つぽいばかりのものだ。活字が乗つて初めて読むことが出来るのだ。活字を乗せるといふ人間の動作は、他の凡ての動作と同じやうに一つの遊びだ。お芝居だ。うまい言葉で言へば、厳かな儀式なのだ。

「詭弁は哀しきオナニーである。」 と言つて詭弁を吐いた佐藤並太郎氏の皮肉に歪んだ顔のあはれさを見るがいい。

 クリストの教義によれば神の「義」を行ふもののみ救はれるといふ。だが何をもつて、これこそ義であると断定し得るのか? 更にまた例をもつて、これこそ悪だと断定し得るのか、理想主義の亡んだ今にして――。クリスト教にとつて第一義のものは「信」の一字であるといふ。だが諸君はかういふことを考へはしないか、つまり、神様はちつとも信じて欲しくはないかも知れない、と。ひよつとしたら、神様は信じられることに嫌悪を催していられるかも知れぬ。あまり信じられるので有難迷惑に困つていられるかも知れぬ――。これは決して冗談ぢやない。何故なら、さうでないと断言し得る支柱はどこにもないのだから。実際ドルゴルウキイの言ひ草ぢやないが「ねえ、一体諸君は僕を自分の後からついて来させるために、何をもつて誘惑しようといふんです? 一体諸君の道を歩いた方がいいといふことを、何で証明しようといふんです? 諸君の共同宿舎に於ける僕の個性のプロテストを、どう始末するつもりなんですか。」である。全く、どうにも証明の仕様はないのである。判るかね? どうにも証明の仕様がないといふことが――。

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